蘇った!ペンタの蹴球日記

あの世から蘇ってきた蹴球老人の日記

一昨年の4月

今夜は、ブログを休んでいた時期のことを書こう。

 

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一昨年の3月のこと、わしは仕事でひどい状況い追い込まれた。一言で言えば、絶望的な状況になったのじゃ。それも自らの落ち度のためではなく、幾人かのサボタージュお蔭でそうなったのである。

 

人生いろんなことがるものじゃ。

 

それにしても、このまま経済的にも最悪な状況においこまれることが決まったのであれば、そうなってしまう前に、自分の貯金のなかにあるお金(の一部)を好きなように使ってしまおう、それくらいなことをしなくて何の人生ぞ、とわしは考えたのである。

 

わしは、バルセロナに行くことにした。

 

わしは、早速試合の日程を調べ、インターネットで旅券を購入した。3月10日くらいのことである(ちょっと日記が出てこないので、正確なところは不明である)カードは4月最初の週末のマジョルカ戦。マジョルは地中海に浮かぶリゾート島であるが、日本人にとっては大久保や家長が在籍しつつも、定着できなかったチームとして悔しい記憶もあるチームじゃ。わしは、当時在籍していた、メキシコ代表のドスサントスが好きじゃったので、対戦カードとしてもかなり楽しみでもあった。

 

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他方で、当時のバルセロナはペップが去り、引き継いだティトが闘病生活を送っており、しかも絶対的なメッシが怪我がちな状況に陥り、メッシ依存をどうするのか?とか、大きなサイクルの終焉とか、という言葉がささやかれていたと記憶する。

 

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一部の人々の間では、わしが方向音痴で有名であるが、当然のことながら、それは旅行先で発症してしまうわけである。

 

わしは、いきなり羽田空港に行くまでに3回迷った。まさか、都内で迷うとは思わなかったが、考えてみたら羽田には小学校2年のとき以来行ったことがないし、だいたいどうやって行くか気にしたこともなかったのじゃ。

 

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さらにバルセロナに到着し、向こうの空港から外に出るのに5回ほど道を尋ねた。じゃが、ひさしぶりの海外旅行で、わしの英語力とジェスチャー力は格段に落ちており、相手が話す英語がまったく通じない。道を教えてもらっても(英語で説明されても)、まったく理解できないのじゃ。

 

あちらの空港には当然のことながら、鉄道やらバスやら複数の交通手段が配備されていて、あとで考えれば、わしの行きたい駅までバスなら直通のものがあったのじゃが、わしは鉄道にこだわっており、さらに空港から外に出るためには、一度空港内を走るバスに乗らねばならないことに、なかなか気が付かず、頭のなかは大混乱してしまって、自分で地図を見て解決する冷静さも失ってしまっていた。

まぁ、最後に尋ねた、兄ちゃんがすごく一生懸命、オーバーゼアとか、バス、バスとか説明してくれ、ようやくいろいろなことを理解した。

 

鉄道のチケットも近くにいた肌の黒い駅員らしきお姉ちゃんに買ってもらい、ようやく市街行きの鉄道にのったはよかったが、目指す乗継駅がいつまでたっても現れない。車窓の景色は、荒地から郊外に、郊外から市街地となったが、ふたたび郊外のものになったのである。そう、これも後で気づいたのじゃが、わしが目指していた乗継駅の名前がわしのガイドブックに書いてあるものと、車両内で表示される名前とが違っておったのじゃ。わしはバルセロナを通り過ぎてしまい、ずんずん東へと遠ざかっていたのじゃ。

 

まあ、それも隣に立っていたおばさんに助けてもらった。彼女も旅行者らしく、地元のことがわかっていないらしいにも関わらず、周囲の人にろいろ尋ねてくれ、周囲の人があまり乗り気でないのを知ると、次の駅で降りようと提案してくれて、例の乗継駅まで一緒に戻ってわしを送り届けてくれたのじゃ。

 

おお、なんというやさしい人であろうか!親切なのは、意外に日本人だけではないのである。

 

わしは人生ではじめて、自らすすんで感謝の念を表すべく、彼女を法要、いや抱擁した。バルセロナで話されているのは、スペイン語とカタルーニャ語がおよそ半々であるらしい。そして、カタルーニャ語は、どちらかと言えばフランス語に近い。首都方面に人々は、当然のことながらカタルーニャ語を嫌っている。

 

彼女が旅行者であることを考えると、彼女がカタルーニャ語ではなくて、スペイン語を話すのではないかと想像されたが、エラそうにそんなことを想像しても、わしはどっちも話せないのであるが、それにしてもスペイン語で「どうもありがとうございす。めちゃめちゃ助かりました。感謝してしきれないです。なんならメールアドレスを教えてくれませんか?日本に戻ったら、日本のおみやげかなんか、送りまっせ」という気持ちは伝える語学力はまったくなかったし、彼女もわしもほとんど英語もできなかったのである(実は、彼女も英語をまったく話さなかった。あちらでは20歳くらいの若者なら英語を話す確率が高いことも、あとで気づいた)。ふたりはほぼ完全にジェスチャーだけで、意思を通じ合っていたので、最後のお別れのときに、自分の気持ちを身体で表現することしか思いつかなかったのじゃ。

 

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ふー、思い出すだけで疲れたので、続きはまたいつか