蘇り
あ、さて。
今夜は何を書こうかまるで決めていない。
今いる部屋は仕事を終えると暖房を止めてしまうので、一気に寒くなってゆくし、早くちゃちゃっと書いておしまいにしてしまいたいのは山々なのであるが・・・・・
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フットサルを再開してしばらくの間、見覚えのある子どもたちが入れ替わり立ち代り日曜日の夜の体育館に顔を出しては、わしらとサッカーを蹴っていた。
彼らは、彼らが幼稚園の年長の頃や小学校低学年のときに、半年ほど一緒にボールを蹴った、昔馴染みである。
その彼らが今年は高校を卒業するというのだから、年月が経つのは早い。
とはいうものの、彼らはまだ子どもで、わしには、小学生がそのまんま手足が長くなったように見える。
この間、わしは何度めか引退をし(原因は加齢?)、サッカーやフットサルのない国へ行っていた。ひさしぶりに帰ってくると、むかし馴染みが、手足が長くなってそこにいるわけである。
わしは何だか、浦島太郎になったような、不思議な感覚がした。天国で、むかしの仲間に再開したような感覚にも似ている。あるいは、生まれ変わったような感覚とでもいうべきか・・・非常に、懐かしいような、でもすこし違うような、そういう感覚である。
(もちろん、いくら老人でも、流石に天国へいったり、生まれ変わったりした経験はないのじゃが^^;)
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すこし違うことはたくさんああるが、最も辛いのは、彼らのスピードについていけず、きりきり舞いさせられることである。わしのような半老人で、10年近く膝のトラブルからちゃんと動けない状態を続けている人間にとって、健康な高校生のスピードは、まさにスーパー!まさにクリロナである。
彼らがターンするとやすやすと振り切られ、すこし本気で走りはじめると置き去りにされてしまうのである。
まぁ、ほんとに情けなくなってしまうわけじゃが、こういう経験をすることが出来たのも、わしと彼らが無事にこの10年を生きのびることのできた証拠なのじゃと感謝することにしておる。
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もちろん、これは、わしがフットサルやサッカーのない国に行っている間、ずっとボールを蹴り続けていた、オヤックスのおかげである。
考えても見よ!
わしがたとえどんなすごい神様であっても、地球がなくなってしまえば、蘇ることは出来ぬ理屈じゃ。
ましてや、引退しそこないのただの老人にとって、帰る場があったことは、感謝してもしきれない。
ありがたいことは、継続することなのぢゃ!
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とはいえ、感謝の気持ちをつい忘れ、「およよ」と思うことはしばしばある。
その項目を思いつくままに列記してみる。
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①相手がゴレイロ以外全員で前がかりになってプレスをかけてきているときに、自陣でつなごうとする(いや、クリアしてしまえと言いたいわけじゃないが)。
②逆に、相手が全員自陣に引いたとき、いきなりロングを放り込む(もちろん、それがターゲットにぴたりと合えば文句はないのじゃが)。
③相手からボールを奪った直後、切り返しをして奪い返される(ボールを奪ったっ直後というのは、相手も近くにいるので、いわば密集になっている。そこからいち早くボールを遠ざけてやること、つまり素早くパスをつなぐのがセオリー)。
④自陣ゴール前の相手に対して体を寄せず、離してしまう(実はフットサルのセオリーはもっと厳しくやる。フィクソはゴール前の相手ピヴォよりも体を前に出したり、並列に並ぶ)。
⑤味方同士重なった局面で、自陣へ向いている選手がボールを持ち、そのまま自陣へ向かってドリブルをして、相手に奪われる(意味がわからん。こういうのは最も危険なプレー)。
⑥前を向いてドリブルしている相手に食いついてしまい、ドリブルで抜かれてしまう(相手が前を向く前に身体を寄せる、前を向いてしまったら、距離を保つ。右サイドでは中を切り、左サイドでは縦を切る)。
⑦攻撃時、相手ゴール横やや離れたところにフリーの味方がいるというのに、この絶好機を見逃し、ドリブルでまっすぐつっかけていく(こういう形は、パスを回して回してでも作りたいありがたい局面なのに、なぜ見逃すのか意味がわからない。ドリブルしてもいいけど、相手ブロックに向かって一直線に向かっていくのはどうなんじゃろう???)。
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寒くなってきたので、そろそろオシマイにするが、これらのうち半分以上はひとつのことであもある。
サッカーは「密集とスペース」を観察して、それをコントロールするスポーツであるわけで、この「密集とスペース」を観察するためには、味方と相手をよく見る必要がある。よく見るためには、よい体の向きが必要じゃ。そして、相手には、よい体の向きを与えないようにすること。
こういうことを考えながら、フットサルを楽しみたいものじゃ!